ウォーキング 杉並木枝おろし事件

旅 日光杉並木物語

もう一つの日光の旅◇ウォーキングin日光★歩きませんか日光路◇

杉並木物語  今市市教育委員会発行「杉並木物語」より

世界遺産の町・日光の旅は旧今市市にある杉並木街道 杉並木は300年に
わたって守られてきたその杉並木にまつわる「杉並木物語」の紹介。
日光杉並木公園とその周辺の
日帰りの
ウォーキング
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「ウォーキングin日光★歩きませんか日光路★」杉並木公園とその周辺杉並木物語杉並木枝おろし事件
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はじめに
 日光杉並木街道は、今市の住民にとって、約四百年にわたり、色々多面的なかかわりをもつわけであるが、ここに一つの象徴的な事件がある。
 昭和二十四年の杉並木枝下ろし事件】である。
 八月三十一日、関東地方をキテイ台風が直撃した。風雨共に猛烈を極め、関東一円の河川は氾濫し、橋梁は流失し、道路は各地で寸断され、利根川、江戸川等の堤防は決壊して、濁流は下町に流れ込んだ。江戸川区、荒川区等は丸一日水浸しになってしまったと、当時の新聞が報じている。
 今市地方でも、前日から激しい雨が断続して降り続き、大谷川は濁流が渦巻き無気味な音が遠くま
で響いていた。三十一日になると益々風雨が激しくなり、屋根は飛び、塀は倒れ、交通機関は前日から全く途絶した。激しい暴風雨のもとで、住民は停電で真っ暗な夜を迎えた。小倉町の追分地蔵尊付近は、杉並木の大木の幹までグラグラ揺れだし、人々は息をひそめて閉じこもり、ひたすら台風一過を待った。その夜の十一時頃である。轟音とともに大木が倒れて一軒の家を潰してしまった。消防団員や隣近所の人々の必死の救出作業も空しく、一人の少年が圧死した。痛ましい事件であった。

 町内会ではこの悲惨な出来事に塁み、再発防止策を協議した二それは地蔵尊前の杉を伐採し、地続きの杉並木の枝払いをすることもあった。しかし、東手宮は薙色を示した、、結局、地蔵尊前の杉は上から三分の一を切り、例幣使宵道と街、坂宰に、遣の沿}、垣の杉の枝を切リ落とすことで東照宮と妥結した。これが、有名な「杉並木枝下ろし事件」である。
 戦後のこの時期は昭和22年から3年連統して台風の直撃を受け、さしも長年に亙り杉並木と共に生きてきた人々も人命を守るためには、このような態度を取らざるをえなかったのである。
 杉並木に対する今市市民の意識の一面を象徴する事件であった。そして、この事件は後日、都市計画その他に色々尾をひくことになるのである。
道路は、我々の生活に多角的に、深く広くかかわりをもっている。東照宮の参道として整備された日光杉並木街道は、各街道に今市宿を中心として、大沢、文挟、板橋、大桑、,大渡の各宿駅が設けられ、ご神領の住民は助郷や並木の撫育などに日光奉行の管轄下におかれた。明治維新まで、この間約二百五十年にわたる。
 現在の今市市を形成する主な村々はこの間に成立した。明治期に入ると、道路は新しい明治政府によって管理されることになり、街道も国有化時代にはいる。しかし、政府は「鉄道優先策」をとり、道路網は幕府の遺産をそのまま引き継いだにすぎなかった。それらの改修や改良は行われたものの、道路はたちおくれた。本格的な道路の整備は、第二次大戦後の荒廃から立ち上がろうとする昭和三十年代まで待たなければならなかった。
 昭和三十一年、政府が名神高速道路の調査の為に招いたワトキンス調査団の報告書の中の、有名な一節がある。・・…「日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は日本のほかにない。」・・…当時、一級国道の七十七%は舗装されていなかったという。その後、道路の整備は急ピッチに進むが、他に例を見ない車杜会の到来に、日本の道路は対応しきれず、「日光杉並木街道」もまた、車の洪水に翻弄される。並木は病み、衰亡の危機が叫ばれて既に久しい。では、日光杉並木街道が、ることにしよう。生きてきた各時代の特徴的な事柄を通じて、沿線住民とのかかわりを見
ることにしよう。
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