ウォーキング 今市宿

旅 日光杉並木物語

もう一つの日光の旅◇ウォーキングin日光★歩きませんか日光路◇

杉並木物語  今市市教育委員会発行「杉並木物語」より

世界遺産の町・日光の旅は旧今市市にある杉並木街道 杉並木は300年に
わたって守られてきたその杉並木にまつわる「杉並木物語」の紹介。
日光杉並木公園とその周辺の
日帰りの
ウォーキング
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「ウォーキングin日光★歩きませんか日光路★」杉並木公園とその周辺杉並木物語>今市宿
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 今市宿
 今市(現在は日光市)成り立ちや移り変わりについては、後章で詳しく述べるので省略するが、むかしは今村といい、今村衆七人の小さな村であった。
 東照宮御鎮座後、日光街道が整備されるに従って、瀬川村や近郷より移住する者が多く宿駅が形成された。かずかずの偉業を残し、晩年日光御神領の開拓事業に尽力した二宮尊徳が、業半ばで病に倒れ、その生涯を閉じた地である。

 江戸時代から明治の中頃まで長さ六丁の町の出入口には木戸が設けられており、元禄9年(1696)には家数223軒(そのうち問屋1・年寄8・馬指1・馬役107.歩行役69・水呑軒37)、馬107匹、江戸・日光を結ぶ通信を取り扱う飛脚番2人がいた。
また天保14年(1843))の記録には宿内の町並東西7丁21間、家数231軒一そのうち本陣中町に1軒・脇本陣上町に1軒)、旅篭屋大小21軒、人口1221人(男609・女51)人馬継問屋が中町にあり、問屋1・年寄6・帳付1・馬指1・肝前6人がつとめる宿場町であった、、例幣使・輪王寺門跡・祭礼奉行をはじめ大名諸侯らの通行のため、日光道中の宿場鉢石・大沢、例幣使街道(壬生通)の板橋、会津西街道の大桑宿へ継立てた人足は延べ1万3000余、馬1万8000余匹に及んでいる。

町並の様子について、寛政11年(1799)日光山に来た松浦静山は・森友村を半里ばかり行くと柵を立て木戸を構えた今市の駅につく。屋並は古く凄くみえるけれど、駅の中路は広く、大小の家居や旅館も多くあり、大名諸侯の休宿した看板をかけておく家もある。深山が近いため冬は寒いとみえて家居の有様は木曾の山家と同じである。一『甲子夜話』)享和三年(1803)多紀安長が来晃したとき宿の入口西側に石地蔵の大像がある。百三十年程前に日光山ガンマンの大地蔵を押し流して此の地に至り、いまでもそのままに置いてある。
 宿の北、並木の西の古い神杜は鎮守の高尾大明神である。宿より東方八町ほどに茶臼ヶ岳という小山があり、眺望もよく春の頃は宿の者などが遊山に来る。(『日光駅程見聞雑記』)
 明治11年(1878)来日した英国人イサベラ.バード女史は『日本奥地紀行』のなかで、今市は二つのりっぱな街道の合するところで、長い坂道になっている町である。そこでは、山の澄んだ水流が石造の水路に囲われ、切って作った石板が渡してあり、町の真ん中を流れていた。水流の上に建てられ、街路をずうっと見晴らすことができる家の部屋には二人の警官が坐って書きものをしていた。町にはあまり人馬も通らず、退屈なところのように見える。あたかも、下方の並木道と、上方の神社の堂々たる姿に圧倒されたかのようである。しかし静かな宿屋があって、私はそこで一晩ぐっすり休息することができた。
 町の中央を流れる紙屋堀が描き出されている。上町の水路の上には今市宿の発展と共に六斎市が開かれて迎えられた市神がまつられていたが、水路変更のとき滝尾神社境内に移されている。

今市(現在は日光市内)
    下車   JR日光線今市駅

杉並木物語
杉並木枝おろし事件
日光社参
街道に変貌
これからの杉並木

杉並木の見どころ
今市宿
報徳二宮神社
如来寺
唐人小屋
浄泉寺
6今市市報徳役所
高尾神社
8水車群
砲弾打込杉
十文字幕府軍 陣地跡
瀬川大日堂七本杉伐痕
12野口薬師堂
13追分地蔵尊
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