ウォーキング 日光文豪連理塚

日光を歩く(浄光寺のみち) 

ウォーキングin日光◇歩きませんか日光路

「随想社発行・日光ボランティア編」の”もうひとつの日光を歩く”
にて紹介されている「・・みち」を歩いたレポートです。

歴史と世界遺産の街・日光の隠れた史跡を訪た。ウォーキングのご案内。

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67文豪連理塚
日光を歩く
 浄光寺のみち
・全工程8km
・歩行時間 50分   
・花暦 5 月シヤクナゲ 
58落合原七・
      巴快寛顕彰碑
59磐裂神社
60優雅な道しるべ
61石升の水道
62還源妙覚院浄光寺
63梵鐘
64憾満親地蔵尊
65菅笠日限地蔵尊
66防火隊碑
67文豪連理塚
68導き地蔵尊
69座禅院権別当の墓
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二基の墓石は、兄弟のように親しかった田岡嶺雲(右)白河鯉洋
(左)の連理塚である。

嶺雲は明治3年(1970)高知県に生まれ、茨城新聞の主筆。幸徳秋水などと親しく、社会主義文学の理論的先駆者。日光出身の画家小杉放蕎と親交があった縁で、結核療養のため日板挽町の小林寅吉宅に滞在、大正元年(1912)9月7日この地で亡くなる。43歳であった。

墓碑の側面に嶺雲の「婦しながら年迎へけり雪の竹」の句。また、「秋風に茶毘の煙や嶺の雲」「此冬わ弟独りに兄ひとり」の弟を悼む兄二人の句が刻まれている。
鯉洋は明治7年(1974)福岡県に生まれ、福岡九州日報の主筆、衆議院議員。大正8年(1919)東京で亡くなる。東大在学中から嶺雲に兄事し、遺言によりここに葬られた。
墓石裏側に犬養毅撰並書の漢文が彫られている。「吾友鯉洋、嶺雲二君は相親しむこと兄弟の如し。鯉洋嘗て日く、吾死せぱ願はくは嶺雲の墓側に葬れと。因て遺骨を分けて此に埋む。鯉洋、姓は白河、名は次郎、字は士暗、鯉洋はその号也。豊前豊津の人、大正8年(1919)12月25日、東京の客舎に逝き、其の生を距つ。明治7年(1974)3月2日生。享年四十有六側面には、笹川臨風の
「友どちのみたま鎮めし二荒山とこのいわほのゆるがぬ事も」の弔歌がある。


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